時事備忘録

最近物忘れが酷いので・・・

判断の基準を「属人的」なものに置く人間の価値判断は信用できない

判断の基準を「属人的」なものに置くとは「誰それが言っているから正しい」とか「誰それのやっていることだから間違いだ」ということだ

行っている事自体や言動の内容ではなく「誰が」を判断の基準に置く人間がいる
これは頭の良さや知識の量などには一切関係がない

 

本来、価値の判断は言ったことやったこと自体に対してなされるべきものだというのは、敢えて説明しなくてもいいだろう

当たり前すぎるくらい当たり前のことだから・・・

 

しかし実際には「好き嫌い」だけでなく「敵か味方か」「身内か他人か」を善悪の判断基準にしている人間が多いのである

こうした価値判断は「ダブルスタンダード」と言われるものを生み出す温床であり、いかに理論武装しよともその理屈は最終的につじつまが合わないものになっていく

根拠もなく正しいものが先にあり、後付で理屈を構築していけば、いずれ破綻するのは同然の帰結であろう

 

ただ人間は感情に引っ張られる生き物なので、個別の人格に対する好き嫌いで物事の価値判断をしてしまうことは誰にでもある話ではある

だが、そうした判断は大概の場合は間違いであり、結果として正しかったとしても根拠が個人の感情である時点で説得力をもちえない

 

だからこそ誰しも自分の価値判断に「属人的なものが混ざってないか?」を常に確認する必要があるのだ

良いことは敵であっても良いことであり、悪いことは身内であってもダメなこと

当たり前の話である

リベラルとリベラルのねじれた思想

「リベラル」を日本語に直訳すれば「自由主義」である

自由主義」の「自由」は何に対してか? ということだが、これは「権力」に対してである

「権力」と聞くと日本では良い印象を持たない人が多いのだが(これは教育の失敗)たとえば「権力」には生活保護社会保険などの公的サービスや所得の再分配などの国家機能も含まれる

「リベラル」を「反権力」と考えるなら「リベラル」が目指すものは「小さな政府」であり「夜警国家即ちある種の無政府主義である

つまり低い税金、低い社会保障、低い公的サービス。これが「リベラル」つまり「自由主義」である

そしてその反対は「ソーシャル」つまり「社会主義」であり「大きな政府」が高い税金、高い社会保障、高い公的サービスを行う

ただしこの「リベラル」は「欧州」でおもに発展した思想であり「米国」ではこれとはまったく違う思想に発展していった

「米国」では「欧州」という「保守」の権威に対する「リベラル」自由主義)であり、また「キリスト」の権威に対する「リベラル」(自由主義)であるという考え方から「自由主義の国」として生まれたわけだが

これに対して

つまり何でも自由な状況は本当に自由なのか?  

なんでも「自由」を放置すれば特権階級のみが「自由」を享受することになるのではないか?

ぶっちゃけ「金のある奴」だけが「自由」になるのではないか?

結果として米国のリベラル(自由主義)は欧州のリベラル(自由主義)に対するリベラル

つまり欧州で「ソーシャル」と呼ばれる左派思想的なモノをリベラルと呼ぶようになった

ここで欧州でいうリベラルと米国でいうリベラルは完全にねじれてしまったのだ

欧州では「リベラル」と「ソーシャル」というわかりやすい図式なものが、米国では「自由主義の解釈の違いで「保守」と「リベラル」に別れ「米国保守=欧州自由主義」であり「米国リベラル=欧州社会自由主義となっていった

そして日本では欧州のリベラルを「自由主義と呼び米国のリベラルを「リベラル」と呼ぶようになっていった

さて最初になんと書いたか、読み返してみてほしい

「「リベラル」を日本語に直訳すれば「自由主義」である」

やれやれである・・・・

戦後の政党の変遷

戦前の政党は「政友会」と「民政党」のほぼ二大政党であった

「政友会」は現代日本で言う保守寄りの政党であり「民政党」は現代日本で言うリベラル寄りの政党ということになるのだが、どちらも現代の「自民党」のルーツである

自民党」は1955年、いわゆる55年体制によって「旧政友会」と「旧民政党」そのた保守政党保守合同によって誕生した

現代に至るまで保守系は「自民党」を主軸に、その他の保守政党という形であまり大きな変化はない

 

一方、革新系の中心である「社会党」は右左分裂と合同を何度も繰り返しながら現代に至る

簡単に振り返ると、1945年終戦の年に「社会党」が結党されるのだが、早くも51年に「左派社会党」と「右派社会党」に分裂する

55年体制で再び革新合同の統一「社会党」に戻るが、60年には右派が再び分離し「民社党」を名乗り、左派社会党が「社会党右派社会党が「民社党」としてその後しばらく右左分裂の状態で進んでいく

そして1998年に「民主党」として三度「社会党」の右左合同が実現した

 

ちなみに「社会党」の正統後継は「社会民主党」ということになっているのだが、その実態はみんなが逃げ出した時に逃げそびれて廃屋に取り残された人々が「社会民主党」あって「社会党」の本流は「民主党」に合流した人々と考える方が妥当だろう

民主党」はその実態として「左派社会党」と「右派社会党」の再合流なのだが、一度は政権を握るもののその後転落し混乱の末に「左派社会党」である「立憲民主党」と「右派社会党」である「国民民主党」に分裂した

よく「民主党は分立したり合併したりを繰り返す」と言われるが「民主党」のルーツを「社会党」と見るなら、右左分裂と右左合併の繰り返しは、終戦後の1951年から延々と繰り返し続いてきた伝統ともいえる

 

他に日本には左右政党とは違う軸として2つの宗教政党が存在する

その一つ「公明党」は結党以来大きな変化はなく、時々の都合で左に付いたり右に付いたりとある意味うまく立ち回ってきた政党だろう

そして最後に1945年の終戦から、ただの一度も分裂も合併も党名変更もしてない唯一政党がある

それがもう一つの宗教政党日本共産党」である

都合のいい線引をする人

フェミナチの話の流れで面白い理屈を聞いた

なんでも「萌え絵は害悪だがアメコミは健全」というものだ

懸命に屁理屈を並べる様はなかなか滑稽なものがあった

 

萌え絵に限らずこの様な自分に都合のいい線引をする人というのがいる

たとえば「ネトウヨ」なるものでもよく見かける

勝手に自分に都合よく「ネトウヨ」というものを定義した上で、自分はその定義に当てはまらないと主張してから「ネトウヨ」批判をする

なかなかに手が込んでいる

 

このように自分がその内側に入らないように勝手に都合よく定義した上で批判するという手法はいろいろな分野でよく見られる

それも多くは自分だけをその定義から外すために、だいぶ無理筋な定義である

 

これは自分を安全地帯に置いた上で相手に対してマウントを取りたいという習性からくるのだろう

ただ自分を安全地帯に置きたいあまりに無理筋な線引きをされるとある種の滑稽さを感じるのである

そうまでしてマウントを取りたいというのはどういう心情なのだろう

よくわからない空気感

緊急事態宣言が一応解除になったようだ

振り返れば緊急事態宣言というのはどうにも飲食店の時間短縮のことらしい

 

このところ夕ラッシュ時の混雑が酷い

特に飲食店が閉まる20時前後の電車の混雑は明らかに「密」だ

「飲食店の時間短縮」によって帰宅時間が圧縮されて混雑が集中するというのはどうみても本末転倒しているように思う

そもそも「飲食店の時間短縮」によって感染が抑えられるという明確なエビデンスを見たことがない

 

聞く所によると昨今の感染は医療施設や介護施設、家庭内感染が多いとということなのだが、その対策が「飲食店の時間短縮」と言われてもどうにも腑に落ちないのである

医療施設や介護施設、家庭内感染の感染が多いのなら、そこを重点的に対策するべき話になるはずなのだが何故か無視である

 

飲食店の感染が特に多いというエビデンスがないのに営業時間を短縮し、感染が多いと言われる医療施設や介護施設、家庭内感染には特に対策もない

緊急事態宣言とは一体何なのか?

感染を抑えるために行っているとはとても思えないのだが

 

「飲食店の時間短縮によって感染が抑えられる」という根拠のない「空気感」だけが独り歩きして、その「空気感」に意をとなえることは許されいという現象

「緊急事態宣言」延長の理由について「感染が減っていない」からということらしいのだが、私はひとこと言いたい

 

「ウイルスよ。空気読め」と・・・

学問を変えたカント

哲学の話は難しいと感じる人も多いだろうと思う

まあ実際に難しいのだから仕方ない

哲学者の名前、ソクラテスだのヘーゲルだのニーチェだのサルトルだのと名前だけは誰でも知っている思うのだが、実際に何をした人かというのは知られていない

知られていないのだから、彼らの哲学が「世の中の何の役に立っているのか?」と思う人も多くいるが、それも当然ではある

そこで「イマヌエル・カント」の話をする

突然「カント」の話をする理由だが、昨日書いた「科学と宗教」の話に関係しているからだ


そこにある科学と信じるという宗教 - 時事備忘録

では「カント」の哲学がいったい「世の中の何の役に立っているのか?」ということであるが、結論からいえば「学問を根底から変えてしまった人」もっと大袈裟に言うなら「世界のすべてをひっくり返してしまった人」ともいえるだろう

どういうことか?

「カント」前と「カント」後では学問というものがまったく別のものになってしまった
ある意味において「カント」がいなければ「カント」後に出てきた学者は存在していないという話である

それまでの学問の中には例えば「死後の世界」とか「この世の果」とか「神の存在」とかが大いに議論されていたのだが「カント」が言ったことは

そんな答えが出る訳がない事について議論するのは時間の無駄だ」と・・・

つまり人間は五感で認識できないものを知ることはできないということである

カントは「死後の世界」とか「この世の果」とか「神の存在」について「わからない」の一言で全て論破してしまった

そして「五感で認識できる領域」を「科学」であるとしたのだ

それ以後「科学」という学問では認識できない領域を扱わなくなった

さらにカントは認識できない領域について「分かった気になる」ことを「理性の暴走」といった

カントは「死後の世界」が「ある」とも「ない」ともいってない

ただ認識できない領域について人間は知ることができないということだ

「理性」も「科学」も万能ではなく「わからない」領域が存在する

そして「わからない」領域について議論することは「科学」ではないのだ

そこにある科学と信じるという宗教

「そのようなものを信じるというのは科学的ではない」という言い方をする人がいる

この言い方自体がとてもナンセンスなのではなるが、それについてなるべくわかりやすく説明する

 

科学的であるとは「そこにある事実」であり、人間が目で見たり触れたりして捉えたり論理的に説明できるものだ

で、ある以上「信じる」か「信じない」かは関係ない

信じようが信じまいがそこにあるのだから

つまり「信じる」という発想そのものが科学的でないのである

 

さらにいうなら「信じない」という行為も科学的でないということになる

科学的であるとはそこにある事実であり、主観である「信じる」「信じない」という話ではない

では「信じる」とは何かなのだが、これは「思想」であり「主観」であり「宗教」である

人間が五感によって感じることができないもので、論理的に「ある」ことを説明できないものだからこを「信じる」か「信じない」かということになるのだ

 

近年の日本では、特に戦後教育では「科学的」であることを絶対基準に置き「科学的」でないものを価値がないものとみなす風潮がある

そして「そのようなものを信じるというのは科学的ではない」という言い方をする

実際はそれが「科学的」という名の「宗教」に過ぎないのは説明した通りでなのである

 

もしあなたがそう言われたならこう言い返してやればいい

「なら目の前に【心】をもってこい。科学的に証明してみろ」と・・・

「科学的」であることが絶対基準であるなら【心】はまったく無価値である

「科学」は世界の全てを説明しないのだ・・・