時事備忘録

最近物忘れが酷いので・・・

政治の本質

政治の理屈自体はそれほどむつかしいものではない

政治の本質は「正義」であり、この「正義」は例えるなら巨人と阪神はどちらが「正義」かというものだ

政治がどのような形をとろうが本質の構造はコレと同じ

このとき「巨人が正義である」と仮定したとする

と、その結果、関西人はいうだろ「阪神が正義で巨人こそが悪だろボケ!」と

つまりコレが政治闘争だ

 

巨人と阪神の場合、決着は試合でつければいい。勝ったほう、優勝したほうが正義だ。

では実際の「政治」ではどう決着をつければいいのだろうか?

これも簡単で戦車を作り戦闘機を飛ばし軍艦を並べればいい。勝ったほうが正義だ。

つまり政治とは落とし所で妥協するか殺し合うかのいずれかで決着する

グラウゼヴィッツは言った「戦争とは政治以外の方法で行う政治の延長」であると

 

ジョコビッチ氏の場合はこれがワクチンと反ワクチンの政治闘争であるということだ。でなければ例外だの特例だので入国させる事もできたはずだ

ジョコビッチ氏の入国が反ワクチンの政治闘争である以上、入国を認めることは反ワクチンを認めることになる。

そんなことをオーストラリア政府に限らず、まともな国なら絶対に認めないだろう

 

「1+1=2」であり「正しい」ものは他の「正しい」ものに否定されない限り基本的に変化しない。

「1+1=3でこれがオレの信念だ」と主張したとてテストの点が変わることはない。しかし「正義」はどうだ?

知っておくべきは「正しい=正義」ではないということ。何が「正しい」かなど神様にしかわからないのだから・・・

一方で感染防止のためのワクチン接種は現代の国際社会の「正義」である

「正しい」かどうかではないのだ。そしてその本質は政治であり「巨人と阪神」の正義の闘いと構造は同じだ

 

「地球環境の為にメガソーラー建設」と「建設の為の森林伐採は環境破壊だ」というのがある

これなど実態は「政府の補助金と固定買い取りでボロ儲け」と「オレの家の隣にそんなもの作ったら不動産価値が下がるだろ」だったりする

これがまさに政治である

 

ある男はゲシュタポにいてユダヤ人虐殺に関与していたが、戦後に死刑となった

その息子は父の過ちを反省し反ナチズムとして共産主義を信奉し、東ドイツの秘密警察で活躍した

そしてベルリンの壁崩壊後、その秘密警察での活躍が罪に問われることとなった

ナチス時代、反ユダヤは正義であり、東ドイツでは反ナチズム反自由主義が正義であった

いまの正義が100年後、正義である保証はドコにあるのか?

 

戦争であれ闘争であれ根回しであれ多数決であれ「正義」とはそのようにして決定し、実のところ「正しい」とは何の関係もない

そして直接であれ間接であれ「自分は関係ない」と思っている人にはこれらの闘争は何の関係もない

若者は政治に関心がないというが「自分は関係ない」と思っている以上は関心がないのは当たり前だ

巨人と阪神の正義も日ハムファンには関係がない

とはいえ「政治に関心がない」という若者が「2次元少女児童ポルノか?」の話題には即座に反応したりする。自分に関係のある「政治」には無関心ではないのだ

「フェミとヲタクの100年戦争」

 

しかし何度も言うが、これら全てが「巨人と阪神」の「正義」と同じ「政治」の本質的対立構造でしかない

競馬のはなし

英国の競馬とはもともと貴族の遊びである

どんな遊びかといえばポケモンのような遊びである

ポケモントレーナー同士が手持ちのポケモンを戦わせるのように貴族たちが手持ちの馬を戦わせていた

そして英国における馬券は、貴族たちが手持ちの馬を競わせていた横で、それを見ていた村人たち(庶民)が断りもなく勝手に博打を始めたものだった

ギャンブルが合法で戦争の勝ち負け以外なら何でも賭けの対象となる国で自然に発生した形である

 

かつて日本で競馬とはギャンブル依存の底辺オヤジの遊びというイメージがあった

今ではだいぶ改善されたが「競馬=馬券」というのが日本競馬である

英国の競馬はあくまで貴族の遊びであり、馬券は庶民が勝手にやっている賭博であったので「競馬=馬券」ではない

この競馬主催者と馬券(ブックメーカー)はまったく無関係であるということは、日本の競馬とはかなり違う

考えれば、野球賭博の為に野球がある訳でも、サッカーくじの為にサッカーをやっているわけでもないのだから、馬券の為に馬が走るという日本の仕組みの方が不健全である

 

日本では賭博は違法である。違法であるがゆえに「競馬法」なる法律を別途作る必要があり、その趣旨に沿うために主催者が馬を走らせ馬券も売るという形が出来上がったのだが、英国人から見れば主催者が馬券を売るという行為が理解できないようだ

英国人から見て主催者が馬を走らせ馬券も売るという行為は「イカサマ」要素以外のナニモノにも見えないようだが「日本ではイカサマ防止のために開催中の騎手は宿舎にカンヅメになり外部と連絡が取れない」と聞くと二度驚くことになる

もちろん英国ではそんな制度はない。どころか騎手免許は騎手を生業とする免許であり、自分の所有馬に自分で(無償で)乗ってレースに出る分には特に免許は必要がない・・・英国の競馬はあくまで貴族(馬主)の為にある

 

では、日本の競馬は誰のためにあるのか?

法律の第一条にはたいていの場合、その法律の必要性。つまり「趣旨」がうたわれている
もちろん「競馬法」も第一条には趣旨がある

競馬法
「第一条 この法律は、馬の改良増殖その他畜産の振興に寄与するとともに、地方財政の改善を図るために行う競馬に関し規定するものとする。」

つまり日本の競馬は生産者(牧場)と地方財政の為に存在するのである・・・

余談ではあるがマルゼンスキーがダービーに出れなかったのも、日本の競馬が農水省による国内生産者保護を目的として存在した為である(その後、ジャパンバッシングからの貿易自由化、グルーバル化の流れで日本の農業(畜産)が解放に向かうが)

シャダイやシンボリは「馬産の国際化こそ日本競馬の発展に繋がる」と主張し農水省以下の牧場護送船団方式に反対していた

当時はずいぶん嫌われていた(今でも?)ようだが、特にシャダイはその後のグルーバル化の流れで、一躍、時代の寵児となった・・・

そして自由化によって日本競馬は世界に対抗できるレベルに成長したが、一方で多くの零細牧場が姿を消した・・・

 

まあとりとめもない話になったが、生産者の為にあり馬券と一体である日本競馬と貴族のお遊びから投機商品となっていった英国を中心とする欧州競馬は根本が違うのである

モノ作り大国

自分がどんなに経験を積んだりスキルを磨いたりしたところで金を出すのは素人のお客さん

プロとしてこれが正しいと言ったところでお客さんがおかしなことを言い出せば全てがひっくり返る

それがどんなにみっともなく常識はずれでも金を出すやつが正しいといえばそれが正しい

で、何が起こるかといえば技術やノウハウの伝承というものが無意味になる

そんなものを勉強したろころで使いみちがないからだ。

素人の客が理解できないことをプロとして理解していても意味がない

 

さらに技術やノウハウを持つプロはコストが高い

どうせモノの良し悪しのわからない素人が金を出すのだから、プロにやらせようが素人バイトにやらせようが成果物に対する見分けなんてつくわけがない

であるなら安ければ安いほどよいということになる

そしてわかってる人がみれば「これは酷い」というモノが世に溢れ返る訳だが、その段になって「金は出すから品質の高いものを」なんて言ったところで無駄である

技術やノウハウを持つプロなんてとっくの昔に絶滅している

つまり業界から技術やノウハウが失われてしまったら、もうどんなに金を出そうとも高い品質のものなど手に入れることはできないのだ

モノ作り大国とは・・・

判断の基準を「属人的」なものに置く人間の価値判断は信用できない

判断の基準を「属人的」なものに置くとは「誰それが言っているから正しい」とか「誰それのやっていることだから間違いだ」ということだ

行っている事自体や言動の内容ではなく「誰が」を判断の基準に置く人間がいる
これは頭の良さや知識の量などには一切関係がない

 

本来、価値の判断は言ったことやったこと自体に対してなされるべきものだというのは、敢えて説明しなくてもいいだろう

当たり前すぎるくらい当たり前のことだから・・・

 

しかし実際には「好き嫌い」だけでなく「敵か味方か」「身内か他人か」を善悪の判断基準にしている人間が多いのである

こうした価値判断は「ダブルスタンダード」と言われるものを生み出す温床であり、いかに理論武装しよともその理屈は最終的につじつまが合わないものになっていく

根拠もなく正しいものが先にあり、後付で理屈を構築していけば、いずれ破綻するのは同然の帰結であろう

 

ただ人間は感情に引っ張られる生き物なので、個別の人格に対する好き嫌いで物事の価値判断をしてしまうことは誰にでもある話ではある

だが、そうした判断は大概の場合は間違いであり、結果として正しかったとしても根拠が個人の感情である時点で説得力をもちえない

 

だからこそ誰しも自分の価値判断に「属人的なものが混ざってないか?」を常に確認する必要があるのだ

良いことは敵であっても良いことであり、悪いことは身内であってもダメなこと

当たり前の話である

リベラルとリベラルのねじれた思想

「リベラル」を日本語に直訳すれば「自由主義」である

自由主義」の「自由」は何に対してか? ということだが、これは「権力」に対してである

「権力」と聞くと日本では良い印象を持たない人が多いのだが(これは教育の失敗)たとえば「権力」には生活保護社会保険などの公的サービスや所得の再分配などの国家機能も含まれる

「リベラル」を「反権力」と考えるなら「リベラル」が目指すものは「小さな政府」であり「夜警国家即ちある種の無政府主義である

つまり低い税金、低い社会保障、低い公的サービス。これが「リベラル」つまり「自由主義」である

そしてその反対は「ソーシャル」つまり「社会主義」であり「大きな政府」が高い税金、高い社会保障、高い公的サービスを行う

ただしこの「リベラル」は「欧州」でおもに発展した思想であり「米国」ではこれとはまったく違う思想に発展していった

「米国」では「欧州」という「保守」の権威に対する「リベラル」自由主義)であり、また「キリスト」の権威に対する「リベラル」(自由主義)であるという考え方から「自由主義の国」として生まれたわけだが

これに対して

つまり何でも自由な状況は本当に自由なのか?  

なんでも「自由」を放置すれば特権階級のみが「自由」を享受することになるのではないか?

ぶっちゃけ「金のある奴」だけが「自由」になるのではないか?

結果として米国のリベラル(自由主義)は欧州のリベラル(自由主義)に対するリベラル

つまり欧州で「ソーシャル」と呼ばれる左派思想的なモノをリベラルと呼ぶようになった

ここで欧州でいうリベラルと米国でいうリベラルは完全にねじれてしまったのだ

欧州では「リベラル」と「ソーシャル」というわかりやすい図式なものが、米国では「自由主義の解釈の違いで「保守」と「リベラル」に別れ「米国保守=欧州自由主義」であり「米国リベラル=欧州社会自由主義となっていった

そして日本では欧州のリベラルを「自由主義と呼び米国のリベラルを「リベラル」と呼ぶようになっていった

さて最初になんと書いたか、読み返してみてほしい

「「リベラル」を日本語に直訳すれば「自由主義」である」

やれやれである・・・・

戦後の政党の変遷

戦前の政党は「政友会」と「民政党」のほぼ二大政党であった

「政友会」は現代日本で言う保守寄りの政党であり「民政党」は現代日本で言うリベラル寄りの政党ということになるのだが、どちらも現代の「自民党」のルーツである

自民党」は1955年、いわゆる55年体制によって「旧政友会」と「旧民政党」そのた保守政党保守合同によって誕生した

現代に至るまで保守系は「自民党」を主軸に、その他の保守政党という形であまり大きな変化はない

 

一方、革新系の中心である「社会党」は右左分裂と合同を何度も繰り返しながら現代に至る

簡単に振り返ると、1945年終戦の年に「社会党」が結党されるのだが、早くも51年に「左派社会党」と「右派社会党」に分裂する

55年体制で再び革新合同の統一「社会党」に戻るが、60年には右派が再び分離し「民社党」を名乗り、左派社会党が「社会党右派社会党が「民社党」としてその後しばらく右左分裂の状態で進んでいく

そして1998年に「民主党」として三度「社会党」の右左合同が実現した

 

ちなみに「社会党」の正統後継は「社会民主党」ということになっているのだが、その実態はみんなが逃げ出した時に逃げそびれて廃屋に取り残された人々が「社会民主党」あって「社会党」の本流は「民主党」に合流した人々と考える方が妥当だろう

民主党」はその実態として「左派社会党」と「右派社会党」の再合流なのだが、一度は政権を握るもののその後転落し混乱の末に「左派社会党」である「立憲民主党」と「右派社会党」である「国民民主党」に分裂した

よく「民主党は分立したり合併したりを繰り返す」と言われるが「民主党」のルーツを「社会党」と見るなら、右左分裂と右左合併の繰り返しは、終戦後の1951年から延々と繰り返し続いてきた伝統ともいえる

 

他に日本には左右政党とは違う軸として2つの宗教政党が存在する

その一つ「公明党」は結党以来大きな変化はなく、時々の都合で左に付いたり右に付いたりとある意味うまく立ち回ってきた政党だろう

そして最後に1945年の終戦から、ただの一度も分裂も合併も党名変更もしてない唯一政党がある

それがもう一つの宗教政党日本共産党」である

都合のいい線引をする人

フェミナチの話の流れで面白い理屈を聞いた

なんでも「萌え絵は害悪だがアメコミは健全」というものだ

懸命に屁理屈を並べる様はなかなか滑稽なものがあった

 

萌え絵に限らずこの様な自分に都合のいい線引をする人というのがいる

たとえば「ネトウヨ」なるものでもよく見かける

勝手に自分に都合よく「ネトウヨ」というものを定義した上で、自分はその定義に当てはまらないと主張してから「ネトウヨ」批判をする

なかなかに手が込んでいる

 

このように自分がその内側に入らないように勝手に都合よく定義した上で批判するという手法はいろいろな分野でよく見られる

それも多くは自分だけをその定義から外すために、だいぶ無理筋な定義である

 

これは自分を安全地帯に置いた上で相手に対してマウントを取りたいという習性からくるのだろう

ただ自分を安全地帯に置きたいあまりに無理筋な線引きをされるとある種の滑稽さを感じるのである

そうまでしてマウントを取りたいというのはどういう心情なのだろう