時事備忘録

最近物忘れが酷いので・・・

よくわからない空気感

緊急事態宣言が一応解除になったようだ

振り返れば緊急事態宣言というのはどうにも飲食店の時間短縮のことらしい

 

このところ夕ラッシュ時の混雑が酷い

特に飲食店が閉まる20時前後の電車の混雑は明らかに「密」だ

「飲食店の時間短縮」によって帰宅時間が圧縮されて混雑が集中するというのはどうみても本末転倒しているように思う

そもそも「飲食店の時間短縮」によって感染が抑えられるという明確なエビデンスを見たことがない

 

聞く所によると昨今の感染は医療施設や介護施設、家庭内感染が多いとということなのだが、その対策が「飲食店の時間短縮」と言われてもどうにも腑に落ちないのである

医療施設や介護施設、家庭内感染の感染が多いのなら、そこを重点的に対策するべき話になるはずなのだが何故か無視である

 

飲食店の感染が特に多いというエビデンスがないのに営業時間を短縮し、感染が多いと言われる医療施設や介護施設、家庭内感染には特に対策もない

緊急事態宣言とは一体何なのか?

感染を抑えるために行っているとはとても思えないのだが

 

「飲食店の時間短縮によって感染が抑えられる」という根拠のない「空気感」だけが独り歩きして、その「空気感」に意をとなえることは許されいという現象

「緊急事態宣言」延長の理由について「感染が減っていない」からということらしいのだが、私はひとこと言いたい

 

「ウイルスよ。空気読め」と・・・

学問を変えたカント

哲学の話は難しいと感じる人も多いだろうと思う

まあ実際に難しいのだから仕方ない

哲学者の名前、ソクラテスだのヘーゲルだのニーチェだのサルトルだのと名前だけは誰でも知っている思うのだが、実際に何をした人かというのは知られていない

知られていないのだから、彼らの哲学が「世の中の何の役に立っているのか?」と思う人も多くいるが、それも当然ではある

そこで「イマヌエル・カント」の話をする

突然「カント」の話をする理由だが、昨日書いた「科学と宗教」の話に関係しているからだ


そこにある科学と信じるという宗教 - 時事備忘録

では「カント」の哲学がいったい「世の中の何の役に立っているのか?」ということであるが、結論からいえば「学問を根底から変えてしまった人」もっと大袈裟に言うなら「世界のすべてをひっくり返してしまった人」ともいえるだろう

どういうことか?

「カント」前と「カント」後では学問というものがまったく別のものになってしまった
ある意味において「カント」がいなければ「カント」後に出てきた学者は存在していないという話である

それまでの学問の中には例えば「死後の世界」とか「この世の果」とか「神の存在」とかが大いに議論されていたのだが「カント」が言ったことは

そんな答えが出る訳がない事について議論するのは時間の無駄だ」と・・・

つまり人間は五感で認識できないものを知ることはできないということである

カントは「死後の世界」とか「この世の果」とか「神の存在」について「わからない」の一言で全て論破してしまった

そして「五感で認識できる領域」を「科学」であるとしたのだ

それ以後「科学」という学問では認識できない領域を扱わなくなった

さらにカントは認識できない領域について「分かった気になる」ことを「理性の暴走」といった

カントは「死後の世界」が「ある」とも「ない」ともいってない

ただ認識できない領域について人間は知ることができないということだ

「理性」も「科学」も万能ではなく「わからない」領域が存在する

そして「わからない」領域について議論することは「科学」ではないのだ

そこにある科学と信じるという宗教

「そのようなものを信じるというのは科学的ではない」という言い方をする人がいる

この言い方自体がとてもナンセンスなのではなるが、それについてなるべくわかりやすく説明する

 

科学的であるとは「そこにある事実」であり、人間が目で見たり触れたりして捉えたり論理的に説明できるものだ

で、ある以上「信じる」か「信じない」かは関係ない

信じようが信じまいがそこにあるのだから

つまり「信じる」という発想そのものが科学的でないのである

 

さらにいうなら「信じない」という行為も科学的でないということになる

科学的であるとはそこにある事実であり、主観である「信じる」「信じない」という話ではない

では「信じる」とは何かなのだが、これは「思想」であり「主観」であり「宗教」である

人間が五感によって感じることができないもので、論理的に「ある」ことを説明できないものだからこを「信じる」か「信じない」かということになるのだ

 

近年の日本では、特に戦後教育では「科学的」であることを絶対基準に置き「科学的」でないものを価値がないものとみなす風潮がある

そして「そのようなものを信じるというのは科学的ではない」という言い方をする

実際はそれが「科学的」という名の「宗教」に過ぎないのは説明した通りでなのである

 

もしあなたがそう言われたならこう言い返してやればいい

「なら目の前に【心】をもってこい。科学的に証明してみろ」と・・・

「科学的」であることが絶対基準であるなら【心】はまったく無価値である

「科学」は世界の全てを説明しないのだ・・・

お金持ちについて

お金持ちに対してある種の悪感情を抱く人がいる

特に豪勢にお金を使う金持ちに対して嫌悪感を抱く人が多いようだ

 

しかし、チョット待ってほしい

お金を散財する金持ちの何がいけないのだろう?

彼らが使ったお金は回り回ってあなたの給料になるのである

何が問題なのだろう?

 

逆に質素倹約に励みひたすらお金を貯め込む金持ちは明らかに害悪だ

「金は天下の回りもの」とはよく言ったもので、お金を貯め込まれると消費が落ち込み景気が悪化し経済が回らず成長が止まる

日本経済はまさにお金が溜め込まれることによって長期停滞が続いてきたのだ

これは豪勢にお金を使う金持ちに対する世間の目というのも多少は関係しているように思う

 

だからもし散財する金持ちを見たならばこれからはこう言うべきだ

「毎度お買い上げありがとうございました」・・・と

 

熊の話

よくこういう話を聞く

「人間の開発によって熊の生息域が脅かされた結果として熊が街に降りてくる」と・・・

それっぽい話に聞こえるが冷静になって考えてみればおかしな話である

 

例えば10頭の熊が生息できる面積の土地があるとする

そこに11頭目の熊が生まれれば1頭が弾かれて街に降りてくる

そこで面積を2倍にして20頭の熊が生息できる面積の土地を確保する

すると21頭目の熊が生まれた時点で熊は山を降りてくる

 

つまりは「熊は山を降りてくる」という事態と生息域の面積は関係がないという事になる

 

こういう話を聞いた

「本来、山と集落の間には人間が管理する里山があったが、近年、これらの里山は管理されず放置され荒れ放題になっている。結果として人が住む集落と熊が住む山との間にあった緩衝地帯である里山がなくなり集落と山との境界が隣接するようになった」と

この方が説明としては説得力がありそうだ

 

世の中に常識となっている言説の根拠を探ると案外あやふやであったりすることは多い

「人間の開発によって熊の生息域が脅かされた結果として熊が街に降りてくる」
何事それっぽく聞こえる通説は「根拠はなにか?」と疑ってみる必要があるのだろう・・・

専門家の専門性

ネット上で医療の専門家でもないのに病気について語ったり、法律の専門家のでもないのに法律について語ったり、軍事の専門家でもないのに軍事について語ったりする人をよく見かける

 

聞くところによれば、実際の診察でも医師の診断にネット記事を持ち出し意見する人もいるようだ

そうした意見を言うべきでないとは言わない

素人が専門の分野について語るなと言う話でもない

ただ最低限専門家や専門知識には敬意をうべきだということである

つまり「素人が思いつきで話すな」ということだ

 

これとは逆に専門家はその分野の専門家であって、日本社会についての専門家でもなければ人生についての専門家でもない

専門家は専門知識を語るべきであって、他人の人生や社会や政治のあり方

もっと具体的に他人の行動をああせいこうせい言うのはおかしいことだ

人間の行動の主体はあくまで本人であって、その行動の決定権もまた本人にある

専門家が個人の行動を細かく規定するべきではないのだ

 

シャーロック・ホームズでワトソン博士が判事に向かって「これは他殺です」と言うと、判事から「事実のみを証言してください」と言われる場面があった

ワトソンが「は?」と言うと判事は「医者の仕事は死因の特定で他殺か自殺かは警察が判断すること」と

つまり医師は医療の専門家で事件や犯罪の専門家ではないのである

 

ネットでも専門家が専門について明瞭で客観的な説明ができるのに、その専門家が専門外のことについて適当なことを言って炎上する事例が後を絶たない

そして専門家であるという肩書だけで、専門外のことであっても言っていることのすべてを信用してしまう人もいる

 

専門家の言うことには敬意を払いながらも決めるのは自分であるということ

専門家は専門以外ではタダの素人であるということ

このことは常に頭に入れておいたほうがいい

芸術の定義

芸術の定義について確定した「コレ」というものはない

よく「これは芸術だ」とか「こんなの芸術ではない」とか議論されるが、かなり不毛だと思う

なぜなら確定した「コレ」を覆そとする芸術家が必ず出てくるからだ

なので芸術の定義について過去に何度も論争が起きてきたが、都度新しい概念が出てきて未だコレというものがないのである

 

それを踏まえて個人的に芸術の定義を問われれば「本人が芸術と言い張れば芸術」ということだと考えている

ただ「芸術」は表現者と鑑賞者の相互作用によって成り立つものという本質的な定義から「芸術」は評価評論されて初めて「芸術」だといえるのだろう

ゆえに批判を受け入れない芸術は芸術ではないのだ

 

さて、芸術にはざっくりと古典芸術、現代芸術、大衆芸術とある

これもカテゴライズは様々あってハッキリ分けられるというわけではないが、とりあえずざっくり3つあるとしておく

 

中でも現代芸術は難しいという人が多いので簡単に説明してみたい

現代芸術でもっとも重要なことは「斬新さ」と「オリジナリティ」である

現代芸術は難しいというのも当然で、他人に簡単に理解されるようでは「斬新」でもなければ「オリジナリティ」もない

つまり見たことも聞いたこともない訳のわからないモノに、現代芸術としての価値があるのだ

 

よく芸術家気取りな人がガラクタを集めて「これが芸術だ」などと言っていたりするのだが、結論からいくと「そんなことをやっている人なら昔から沢山いる」つまり見飽きたものでしかない

「見飽きた」という評価な時点で現代芸術しては価値がないのだ

現代芸術と称しているものの中には「車輪の再発明」みたいなことを恥ずかしげもなくやっている人をたまに見かける

もちろんそんなものに価値はないのである

そう考えるとまったく今までにない新しいものというのは、とてつもなく難しいことだ