時事備忘録

最近物忘れが酷いので・・・

お金持ちについて

お金持ちに対してある種の悪感情を抱く人がいる

特に豪勢にお金を使う金持ちに対して嫌悪感を抱く人が多いようだ

 

しかし、チョット待ってほしい

お金を散財する金持ちの何がいけないのだろう?

彼らが使ったお金は回り回ってあなたの給料になるのである

何が問題なのだろう?

 

逆に質素倹約に励みひたすらお金を貯め込む金持ちは明らかに害悪だ

「金は天下の回りもの」とはよく言ったもので、お金を貯め込まれると消費が落ち込み景気が悪化し経済が回らず成長が止まる

日本経済はまさにお金が溜め込まれることによって長期停滞が続いてきたのだ

これは豪勢にお金を使う金持ちに対する世間の目というのも多少は関係しているように思う

 

だからもし散財する金持ちを見たならばこれからはこう言うべきだ

「毎度お買い上げありがとうございました」・・・と

 

熊の話

よくこういう話を聞く

「人間の開発によって熊の生息域が脅かされた結果として熊が街に降りてくる」と・・・

それっぽい話に聞こえるが冷静になって考えてみればおかしな話である

 

例えば10頭の熊が生息できる面積の土地があるとする

そこに11頭目の熊が生まれれば1頭が弾かれて街に降りてくる

そこで面積を2倍にして20頭の熊が生息できる面積の土地を確保する

すると21頭目の熊が生まれた時点で熊は山を降りてくる

 

つまりは「熊は山を降りてくる」という事態と生息域の面積は関係がないという事になる

 

こういう話を聞いた

「本来、山と集落の間には人間が管理する里山があったが、近年、これらの里山は管理されず放置され荒れ放題になっている。結果として人が住む集落と熊が住む山との間にあった緩衝地帯である里山がなくなり集落と山との境界が隣接するようになった」と

この方が説明としては説得力がありそうだ

 

世の中に常識となっている言説の根拠を探ると案外あやふやであったりすることは多い

「人間の開発によって熊の生息域が脅かされた結果として熊が街に降りてくる」
何事それっぽく聞こえる通説は「根拠はなにか?」と疑ってみる必要があるのだろう・・・

専門家の専門性

ネット上で医療の専門家でもないのに病気について語ったり、法律の専門家のでもないのに法律について語ったり、軍事の専門家でもないのに軍事について語ったりする人をよく見かける

 

聞くところによれば、実際の診察でも医師の診断にネット記事を持ち出し意見する人もいるようだ

そうした意見を言うべきでないとは言わない

素人が専門の分野について語るなと言う話でもない

ただ最低限専門家や専門知識には敬意をうべきだということである

つまり「素人が思いつきで話すな」ということだ

 

これとは逆に専門家はその分野の専門家であって、日本社会についての専門家でもなければ人生についての専門家でもない

専門家は専門知識を語るべきであって、他人の人生や社会や政治のあり方

もっと具体的に他人の行動をああせいこうせい言うのはおかしいことだ

人間の行動の主体はあくまで本人であって、その行動の決定権もまた本人にある

専門家が個人の行動を細かく規定するべきではないのだ

 

シャーロック・ホームズでワトソン博士が判事に向かって「これは他殺です」と言うと、判事から「事実のみを証言してください」と言われる場面があった

ワトソンが「は?」と言うと判事は「医者の仕事は死因の特定で他殺か自殺かは警察が判断すること」と

つまり医師は医療の専門家で事件や犯罪の専門家ではないのである

 

ネットでも専門家が専門について明瞭で客観的な説明ができるのに、その専門家が専門外のことについて適当なことを言って炎上する事例が後を絶たない

そして専門家であるという肩書だけで、専門外のことであっても言っていることのすべてを信用してしまう人もいる

 

専門家の言うことには敬意を払いながらも決めるのは自分であるということ

専門家は専門以外ではタダの素人であるということ

このことは常に頭に入れておいたほうがいい

芸術の定義

芸術の定義について確定した「コレ」というものはない

よく「これは芸術だ」とか「こんなの芸術ではない」とか議論されるが、かなり不毛だと思う

なぜなら確定した「コレ」を覆そとする芸術家が必ず出てくるからだ

なので芸術の定義について過去に何度も論争が起きてきたが、都度新しい概念が出てきて未だコレというものがないのである

 

それを踏まえて個人的に芸術の定義を問われれば「本人が芸術と言い張れば芸術」ということだと考えている

ただ「芸術」は表現者と鑑賞者の相互作用によって成り立つものという本質的な定義から「芸術」は評価評論されて初めて「芸術」だといえるのだろう

ゆえに批判を受け入れない芸術は芸術ではないのだ

 

さて、芸術にはざっくりと古典芸術、現代芸術、大衆芸術とある

これもカテゴライズは様々あってハッキリ分けられるというわけではないが、とりあえずざっくり3つあるとしておく

 

中でも現代芸術は難しいという人が多いので簡単に説明してみたい

現代芸術でもっとも重要なことは「斬新さ」と「オリジナリティ」である

現代芸術は難しいというのも当然で、他人に簡単に理解されるようでは「斬新」でもなければ「オリジナリティ」もない

つまり見たことも聞いたこともない訳のわからないモノに、現代芸術としての価値があるのだ

 

よく芸術家気取りな人がガラクタを集めて「これが芸術だ」などと言っていたりするのだが、結論からいくと「そんなことをやっている人なら昔から沢山いる」つまり見飽きたものでしかない

「見飽きた」という評価な時点で現代芸術しては価値がないのだ

現代芸術と称しているものの中には「車輪の再発明」みたいなことを恥ずかしげもなくやっている人をたまに見かける

もちろんそんなものに価値はないのである

そう考えるとまったく今までにない新しいものというのは、とてつもなく難しいことだ

インフレとデフレの意味

インフレとデフレを考える際に基本的なことを常に頭においておく必要がある
こんな話を聞いた

「デフレになれば給料も下がるが物価も下がるので問題ない」という

確かにその通りではあるのだが、これは「インフレになれば物価も上がるが給料も上がるので問題ない」と表裏であるので、デフレの優位性の説明として不適切であることが分かる

物事には常に表裏がありメリット・デメリットがあるという話なのだ

これはどんな主張でも反論が可能という意味であり、最終的には水掛け論になり不毛である

 

そこから抜け出すには別の視点が重要であり、また自分の立ち位置も確認しておく必要がある

個人的にはデフレは「悪」であると考えているのだが、物事には常に表裏があるのだからデフレは「善」という考え方も可能だ

ではなぜ自分がデフレは「悪」であると考えているのか?

 

これはインフレとはモノの価値が上がり、デフレとはお金の価値があがるという基本に立ち返ってみると理解できるだろう

ここでモノの価値といっているがこのモノには労働も含まれる

1000円で売れてたものが500円になっても労働の手間が半分になるわけではない

つまり同じ労働時間で作ったものの価値が半分になるのがデフレということだ

 

ここで立ち位置というものが出てくる

もしあなたが金持ちの資産家であるなら、デフレでモノの価値が下がることは良いことである

安く買えるというのは自分の資産価値が上がるという意味だからだ

しかしもしあなたが労働者だったら、デフレはあなたの時給が半分になるということを意味する

 

もちろん自分は資産家ではないので、デフレは「悪」であると断言ができるという訳だ
ものごとにはメリット・デメリットがあるといっても皆平等にメリット・デメリットを享受するわけではないのだ

ネット議論

「反論か?誹謗中傷か?」という判断は難しいと言われる

実際に難しいといえば難しいのだが、そもそも「反論か?誹謗中傷か?」ということを判定しようとする事自体に無理がある

というのは「反論か?誹謗中傷か?」という判断は当事者がするものではないからだ

 

「では、誰が判断するのか?」なのだが、ネットでの議論の場合は、それを見ている多くの第三者が個々に判断することになる

当事者同士は相手のことしか見えていないものだが、ネット議論は「公開討論」であり、多くの人がその成り行きを覗いている

 

そしてこれらの人々は議論をしている当事者に感情移入していく

なので当事者は相手に向かってい言ったつもりの言葉が、それを見ていた人たちは「自分が言われた」と錯覚することになる

 

例えば2人のやり取りを見ていた100人が「これは正当な批判だ」と感じていたとして、それに対して「誹謗中傷だ」と発言すれば見ていた100人が「オレが誹謗中傷してると言われた!」と感じて相手の側についてしまう

逆に「バカがイチャモンをつけて粘着しているだけ」と見ている人に思わせることができれば、100人を味方につけることもできる

だから批判に対して「誹謗中傷」の一言で切って捨てるような態度はとても得策とは言えない

 

なんにせよ「多くの人がその成り行きを覗いている」ということを意識していると、少なくとも不必要に状況を悪くする事はなくなるだろう

言論と名誉毀損

「言論者は誹謗中傷に耐え続けなければならないのか?」

これに対する回答は一つ

「言論者は反論に対して再反論もしくは説明をもってして、自らの正しさを証明しなければならない」

ということだ

 

つまり「言論者」は「言論」によってのみ自らの正当性を証明できる

 

裁判所は「真実」を明らかにする場所ではない - 時事備忘録

で書いたが、裁判で勝利しても正しさを証明することはできないのである

最近、言論人が「名誉毀損」で反論者を訴えるという行為をよく見かけるようになった

しかし「名誉毀損」というのは他者の発言で社会的地位が低下し損害が生じたという訴えであって、真実が何かを決めることではない

仮に反論が事実であっても「名誉毀損」成立しうるし、逆に言えば「名誉毀損」は事実であるかどうかを問題にしていない

つまり「名誉毀損」で勝利しても正しさを証明できないのである

できないどころか言論に対して言論以外の方法で対抗する行為は多くの人に増々不信感を与えることにすらなる

 

一般に裁判に訴えるという行為は法によって反論を封じる行為であり、言論人がこれをやることはほぼ禁忌といってよいだろう

これは言論人が「言論では戦わない」と宣言していることと同義であるのだから